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英雄の証・後編

後編をお届けします。前編からすぐ後編をと期待していた方がいるのか分かりませんが、それなりの方が最終局面までクリアするのにあわせて後編が出される、ということだったのでした。
いやこりゃ失敗でしたね(笑)。未完のままが気になってゲームは進まないし、こっちも書き上げられないし、ということで「ゲーマー」としてははなはだ悪手であったと言えましょう。でもおかげで書きたいことは書けました(笑)。

武器について
ハンターの世界
明日へ架ける橋(習作)1
明日へ架ける橋(習作)2
英雄の証・前編
英雄の証・後編


ハンターの原風景

初めてイャンクックを倒した 時、あるいは初めてレウスが目の前で脚を引きずり出した時、その時の血の逆流するような興奮。
ミナガルデ時代から狩りを続けて来たハンター達に共通する狩りの原体験がここにあります。

完全に周りの見えない視野狭窄に陥りながら必死の攻防を続け、「その局面」が表れた時の頭の中がすっと晴れ渡って目が覚めると同時にカーッと血圧が上がる興奮。
その時その場にいたハンターは皆が皆「モンスターハンター」であったといえますし、そこには光り輝く「英雄の証」が起立していたといえます。

多くのハンターが「もう一度あの経験を」と、その先の狩りへ進みます。また、ゲームがリニューアルされるごとにそれがもう一度訪れることを願う書き込みとかが掲示板をにぎわせます。

確かにその原風景にはモンスターハンターの核心があります。その一点に触れることがすべてのようにすら見えます。その気持ちは良く分かりますし、中の人にもそれを求める欲求は大きくあります。が、敢えて断言いたしましょう。

…それはモンスターハンターを続ける限り二度と得られないのです。

人が二度生まれないように、「ハンター」も二度生まれません。クックを倒したその瞬間、レウスが脚を引きずったその瞬間。その瞬間とは、まさにそこに一人の「ハンター」が生まれた瞬間なのです。


ハンターとして、モンスターハンターとして

経験を重ねたハンターにしてみれば、イャンクックはもはや「森のアイドル」であり、王者レウスもあるはタイムアタックの対象くらいではあるでしょう。彼らを相手に自身が「モンスターハンター」になれる経験はほんのわずかな初心の時にしかないといえます。

無論その後も新たなモンスターに挑む時、前人未到の取り組みを成功に導いた時、あるはパーティーが予想もしなかったような連携を取った時、その興奮は再来します。しかし、それとて白紙に落とされる最初の一筆にはなり得ません。逆に言えば、難関に取り組むのも、新しい試みへチャレンジするのも、すべてはその時の興奮の再来を願ってのことだといえるでしょう。

おそらくその動機がもっとも純粋なこのゲームにおける狩りの動機です。ただひとつ、「モンスターハンター」たらんがためにフィールドへ赴く。そのハンターの目には曇りも無く、自らの動機に迷いも無い。そしてそれがなされたとき、そこにはまたひとつの「証」が打ち立てられることでしょう。「あの時の自分たらんがために」それは、ハンターの指標としてもっとも大切なものと言って良いかと思います。

が、先にも述べたように、それもまた擬似的な再現にとどまらざるを得ないわけです。では、それは極論すれば幻を追い求める行為にすぎないのか。幾多の強敵を打ち倒し、幾多の難関を突破し、幾多の狩りを作り上げ、その先には一体何があるのか。

ハンターはなぜ狩るのか。

ハンターとして、モンスターハンターとして、日々狩り場へ赴く「私」は一体なんなのか。
ことここに至って、話は振り出しに戻ります。すなわちこのサイトがP2記事を掲載した、その最初に書かれた一文。「このサイトについて」をご覧になればそのまま載ってますが、敢えてここに再録しましょう。


あまりゲームに縁のなかった中の人がモンハンに着目し、かなり一生懸命やったのは、このゲームがこれからのデジタルゲームの方向性に大きな意味を持つのじゃないかと考えたためです。ゲームの方向性というと巷で話題のハイデフかお手軽か論争みたいですが、そうではありません。
将棋というゲームがあります。これはボードゲームの一種ではありますが、単独で成立していますね。チェスにしろ、囲碁にしろ、類似のゲームでありながら、それぞれはそれぞれで成立しています。趣味はなんですか?と聞かれて、将棋です、と答えることに何の不自然もありませんが、ボードゲームです、と答えられたらちょっと疑問です(ま、いるでしょうが)。
また、その将棋を生涯の趣味としても何ら不自然はありません。
でも、デジタルゲームは、その総称としての「テレビゲームが趣味」という表現になりますね。

端的に言いましょう。
デジタルゲームは(部分的に)、「テレビゲームが趣味です」の段階から、「モンハンが趣味です」の段階に行けるんじゃないか、ということです(モンハンに限りませんが)。
部分的に、と書いたのはデジタルゲームの本質がシミュレーションにあるという(コンピュータですからね)自由度・非固定性のためです。将棋だって今はモニタの中ですし。
つまり、このサイトは、上に書いたことが本当にありうるのか?ということを検証するために作成されました。
なぜ、モンハンばかりバカみたいにやってんですか(そんな酷い書き方ではありませんが)という内容のメールもいただきますが、「限定する」ことが当初よりの目的なのです。限定した上で、どこまでそのゲームプレイに工夫をし続けられるのか、それができなくなるとしたら(できなくなったら生涯の趣味にはなりませんね)何が原因なのか。
ゲームプレイの工夫、と書きましたが、超長期にわたる取り組みは、提供された遊びだけでは当然成立しません。ユーザー側が「遊び方」を考えて行かないかぎりプログラムの限界がゲームの寿命です。また、それ(工夫)をさせてくれるゲームが求められるゲームともいえます。

もちろん現在のモンスターハンターがそれ(生涯ハンター)を実現できる完成度を持っているとは思っていません。ただし、非常に近い何かを持っているとは思っています。
生涯1ゲームタイトルというスタイルがあるとしたら、何が必要なのか。何が足りないのか。どのように取り組めば良いのか。そんなことを考えるためにこのサイトは続いて行きます。


今にしてみますと、まだこの一文を書いた時にはハンターになりきってない観がありますな。自分−ゲームの対立項で捉えていることが良く分かります。この後、今に至るまでにいくつかの「解」を得ることができました。武器について、世界について、明日へ架ける橋、そしてこの英雄の証と続いてきた考察の中で、ハンターがハンターである、ただそれだけのことがモンスターハンターを成り立たせる唯一絶対の条件であることをわれわれは見てきました。

上に書かれた「完成度」が、こちら側の問題であったことをすでにわれわれは知っています。
将棋指しが棋士であるように、われわれはハンターである、それはもう可能なことでした。
こうなるともうモンハンがどうとかいう問題じゃないですね。われわれはモンスターハンターを選んだ、それが答えです。そうであるならば、問題なのはそれが「選ぶ価値のある」ものなのかどうか、ということになります。

少々脱線しますが、ここでちょっと「たかがゲーム」という点について述べておきます(笑)。
本来これは考察するに値しません。値しませんのでこれまで捨て置きましたが、ま、事のついでに。

まず問いましょう。では何が一体「たかが」じゃないというのか。

羽生さんが名人になりました、だから何だというのか。イチローさんが200本ヒットを打ちました、だから何だというのか。すべての事象は単に現象です。だから何だと言っても何でもないのです。
意味とは現象の側にあったり無かったりするものではないのです。意味とは「持たせる」ものなのです。そんなの真剣にやっても意味ねーだろ。それはその発言者がそれに意味を持たせられない、それだけのことしか表していません。

脱線とは言いながら、ここには明解な解がありますね。

すなわち、われわれはハンターとして、モンスターハンターとして、「モンスターハンター」に意味を、価値を与えるのです。

他者が選ぶ価値、である以前に自分が選ぶ価値である事が重要です。あなたがその価値を狩りの中に見いだした時、その時がまた「英雄の証」が打ち立てられた時なのです。


英雄の証

今手元に、あるハンターのまとめられた記録があります。MHGにおいて長らく不可能とされて来た「黒4本」こと黒ディアブロス2頭のヘビィボウガンによる狩猟の詳細です。
「アイテム欄1コマあたりのダメージ量」といういきなり極限をついたパッケージングにはじまり、立ち回りから各弾種の運用と、一体どれだけの狩りの経験がこれを書かせることを可能としたのか。この記録を読み返すたびに叫びたくなります。
「みんな見てくれ!これがモンスターハンターだ!俺はこんなハンターと同じ土俵にいるんだ!」と。

この文章の前編において、
「今、モンスターハンターの世界がまぶしさを持って見上げるべき高みを持っているのなら、思わず顔のほころぶ広大さを持っているのなら、それをそのような地点にまで切り拓いてきた無数のハンター達の証…「英雄の証」によって、それはその「用」をわれわれに見せるのです」
と書きました。

なにがモンスターハンターをしてその高みを形成したのか。黒4本であったり、G老山龍であったりを到達可能な高みとして誰が据えたのか。無論プログラムはそれを可能とする設計をされていたのでしょう。でも、誰もやっていなかったのなら、その高みは無いのです。

同様に、ここに一人のガンナーがいます。ひたすら仲間の回復を極めんとし、何人たりとも自分の前では力尽きさせないという覚悟を持って狩りに挑んでいます。あるいはそれもあらかじめ用意されていた選択肢のひとつかもしれません。しかし、これも誰もそれをやっていなかったのなら、その広がりは無いのです。

モンスターハンターの高みの証。モンスターハンターの広大さの証。

はじめに述べたように、皆の追い求める「狩りの原体験」は二度訪れません。それは一度きりであるが故に至高の価値を持つのです。しかし、それが叶わなくても、それを追い求めるハンター達は自らの行く先に幾多の証を打ち立てて行くことになります。その追求が純粋である故に、また、その動機が確固としているが故に、その証は「英雄の証」と呼ばれます。

そして、われわれハンターは、その「英雄の証」を継承するために狩りをするのです。

これが、前編において継承という表現を使った本意です。その「証」を継承して行くことによって、ハンターは、モンスターハンターは、「モンスターハンター」を選ぶべき価値のある何ものかに「する」のです。選ぶべき意味を、選ぶべき価値を与えるのです。

P2Gが発売されて半月。もうそれなりの方が最終局面を迎えましたでしょうか。
最後の激戦を制してその余韻に浸っているハンターさんも多いでしょう。そこに水をさすようですが、ここでは敢えて言わせていただきます。

そこからがモンスターハンターです。

あなたはどんな証を継承しましたか?
そしてどんな証を送り出しますか?
P2Gがどのような「モンスターハンター」であるか、それが形作られるのはこれからです。

あちこちで書いてますが、P2Gが無印以来のモンハンのファイナルであるという線は濃厚です。いわばひとつの時代の区切りですね。その区切りになる狩り場がどのようなものとして語られるか。それはP2Gのプログラムだけに依存するのではありません。P2Gを狩り場とした皆の狩りの総体が語り継がれるのです。

では、最後に最近すっかりラームさんに持って行かれちゃった(笑)台詞で。

すべてのハンターの皆様が、今日も良い狩りを続けられることを祈ります。


モンスターハンターポータブル

大体書きたいことは書いちゃったので、後は蛇足です。

もちろん、てっぺんを極めようとする狩りが、最高の強度を持つ「証」を打ち立てることに疑念の余地はないですが、それだけが「証」ではないですね。当然のことながらそれぞれの証はそれぞれの個々のハンターのいるポジションにとって相対的に価値があったりなかったりはします。例えば、ここで上位のディアブロスが倒せなーい!というガンナーさんにとっては、角ハメの詳細こそが最高に価値のある「証」にもなりますし、逆に立ち回れるガンナーにとってそれは「ハメてんじゃねーよ」という「価値のない証」になるでしょう。

斯様にその価値の実体というのは、その局面局面で百者百様に展開することになるわけですが、それが展開可能かどうか、というのは当然ゲーム環境があるかないかに依存します。

ここで、月1くらいで繰り返されるご質問(ご要望?)にお答えしておきましょう。
すなわち、なんでここの人はMHFやらないの?というご質問です。

中の人は別にMHFを「やる価値のないもの」として捉えている、とかそういうわけではありません。その構成に関していろいろ問題はあるのでしょうが、MHFというのが従来のモンハンシリーズを「やらないような人」への門戸として運営されるのならば、あのような仕様はさほど間違っていないと考えています。また、モンスターハンターシリーズへ新しい可能性をもたらすには、従来の路線でやっちゃったら、そちらの方が価値がない、とすら考えています。

すなわち、MHFをやってみることに異存はないですし、大変興味がある、ともいえるでしょう。

が、中の人がポータブルシリーズにこだわっているのにはそれなりの理由があり、その理由故にMHFに限らずMHdosなりMHGをやることも当面無いといえます。

その理由とは、先に述べたゲーム環境の有る無しの問題です。
中の人がポータブルシリーズを選んだ理由は、その環境が存続する可能性がもっとも高いからです。一番売れるだろうから、とかではなく(P1の時に今のこの状況は思いもよりませんでした)、単純にお手軽なハードとソフトがあればできるから、という理由です。他のシリーズがネットワークを断たれた時どうなるか、と考えると分かりますね。

つまり、中の人は後続のシリーズが「どんなことになるにしろ」、ハンターが帰って来れる狩り場としてポータブルシリーズがもっとも強固である、と考えてこれをやっているのです。そのためには、ポータブルシリーズの中に「狩りの醍醐味」がちゃんと詰まっていることを切り開いて行かなければならないということでもありますね。フィールドをただ巡る楽しさから、最高の緊張感を持つ狩りまで、その狩りの全局面がポータブルシリーズの中で再現できることをまずは確認しようと思っています。それが確認できたなら、いつでもここに戻って考え直せば良いのです。

というわけで、その辺りに目星がつくまでは、まだまだ他の狩り場へ出ることは無いでしょう。


更なる蛇足

今更これは書かなくても、と思いもしますが自分なりの決着なので書いときます。

この「英雄の証」のタイトルは去年の暮れには考えていました。その時何があったか、それには詳しくは触りません。
しかし、その時偉大な証の継承の経路が次々と断たれ、大変悲しい思いをしたハンターがたくさんいました。
その時そのまま書いちゃうとなんだか書いちゃいけないことまで盛大に書いちゃいそうだったので、頭を冷やしていたのですが、それでここに来て、となったのですな(われながら気が長い)。

今回の「英雄の証」は、自分で読み返してもいつにも増して冗長かつくどいといいますか、三分の一くらいでまとまる気もしますが、この繰り返しは中の人が自分に言い聞かせている繰り返しだとお思いください。

何が良いとか悪いとかは申しません。ただ、前編にも書いたように狩りの経験、その証の継承を保証するものは、本当にはかないものなのです。あるポジションにいる方は、本当にちょっとしたことでそれを断ってしまえるのです。

よろしいか?われわれは冗談でこれをやっているのではないのです。

できますならば、その真摯さに見合った細心の注意を。失敗があったならば最善のフォローを。

もう二度とあのようなことが起こりませんように。

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