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英雄の証・前編

さてこんばんは。
いよいよMHP2G発売ですね。P2から引き継がれる方、P2Gで一からはじめられる方、またはP2Gが初めての狩り場になる方もいるでしょうか。
これから掲載する「英雄の証・前後編」は、そのようなすべてのハンター達へのHUNTER's LOGからの贈り物です。

武器について
ハンターの世界
明日へ架ける橋(習作)1
明日へ架ける橋(習作)2
英雄の証・前編
英雄の証・後編


体と用

人が「物事」を見る時に、(きわめて特殊な精神状態を除くと)それは次のような2面性を持って捉えられます。
すなわち体(モノ)と用(コト)。
体とはその物そのもので、定量的に観測できる実体のことを言います。一方の用とはその「働き」が表れる模様を指します。実際にはそれぞれがそれぞれに内包され、無限の入れ子構造を呈するのですが、面倒な哲学議論をするつもりはないので、とりあえず簡単にそのくらいで良いでしょう。
「たとえ」で言うならば、鉛筆というのは木材の鞘に黒鉛の芯を通した「物(体)」ですね。しかしこれを持つ人のそれぞれによって、それは文章という「用」を成し、絵画という「用」を成し、あるいは楽譜という「用」を成したりもします。六角鉛筆ならばサイコロにだってなりますな。

はて、毎度毎度のことながら一体なんの話がはじまったのか。
もちろんモンスターハンターのお話です。

「モンスターハンター」とは一体どこにあるのか。
あるいはモンスター「ハンター」とはどこにいるのか。

ゲーム機に収まった「モンスターハンター」のディスク。そこにあるのはモンスターハンターの「体」です。鉛筆がただ転がっていても鉛筆でしかないように、ゲームディスクもそこにあるだけでは+と-の列の刻まれた円盤にすぎません。

誰かが鉛筆を持ち、白紙を前にし、その筆先を走らせる。
誰かがディスクを起動し、モニタに村が映り、ハンターが歩き始める。

こうしてモンスターハンターの「用」がはじまります。あらゆる狩りは、ディスクの中にもモニタの中にもありません。ディスクを起動した者とその「体」の間、その境界面に狩り場は表象します。


ジェネレータ

モンスターハンターにはストーリーがない。故につまんない。大体ゲーム雑誌の○×批評に毎回載る文言です。
そりゃそうだ、とハンターは言います。モンハンはアクションゲームだもん。ストーリーは要らんわな。

モンスターハンターの新作が登場するたびに繰り返される光景ですが、どちらもちょっとずれています。無論モンスターハンターにストーリーはありません。しかしそれはアクションゲームだからそれは不要という理由ではないのです。

そもそもアクションゲームにストーリーがないなどというのは大変な誤解です。世の「アクションゲーム」を良く見てみましょう。確かにゲーム内でストーリーは進行しないかもしれません。が、その局面になぜ至ったのかに関する膨大なストーリーがあらかじめ与えられているのです。すなわち通常の「アクションゲーム」というのは大きなストーリーの中の一瞬を捉え、切り出し、そこを遊ぶ、という設計がなされているものなのですね。

モンスターハンターにはそれすらありません。
なぜ狩るのか、そのストーリーはないのです。「読み解かれるべき」何かを仕込んで送り出されたものではない。
では、もう単純にモンスターを狩るテクニックだけがシミュレートされる場として送り出されたのか。それにしては「馬鹿げた」と言って良いほどのアイテムに満ちあふれています。その選択できる方法の多様さ故に、単純にテクニックを比較して優劣をつけられないほどです。

当然です。モンスターハンターは狩りの腕前を競うことに主眼を置いて作られてはいないのです。そもそもスコアがありません。
腕前を競わず、たどるべき筋もなく、それでは一体モンスターハンターとは何なのか。巨大なモンスターを狩る、その経験はどこへ持っていかれるのか。

仮定してみましょう。このゲームはただひたすらに「体」としてわれわれの眼前に置かれたものなのだ、と。この鉛筆は「何用」でもありません。ただ「体」として、言い換えればジェネレータとして眼前にある「モンスターハンター」。
もしそうであるならば「どうすべきか」をゲームに問うても、帰ってくるのは沈黙です。「どうすべきか」という「用」は、すべてそのジェネレータに触れた一人一人にゆだねられるのです。


打ち立てられる証

少々ネガティブな話になりますが、連日連夜掲示板をにぎわす話題のひとつに「ハメ」は是か非か、というものがあります。あるいは、難易度に関して「文句あるなら弱い武器使ったらいーじゃん」「わざわざ何でそんなことスンのさ」なんてのもありますな。最効率で黙々狩るのが良いとか、イーやそんなの狩りじゃねーとか喧々囂々です。

何かを否定する、というのは大変重要なことです。以前「狩りのスタイル」ということを重視した文章を書きましたが、ちゃんと否定することもできずに自らのスタイルなど立たせようもありません。自分のスタイルは「こう」である、と言うのと、自分のスタイルは「そう」ではない、と言うのは、実はほぼ同じことなのです。

が、ここで忘れてはいけないことがあります。ケンカ腰に言うなとかそういうことではありません。もっと根本的に「なぜそこに否定できるものがあるのか」ということです。その「自分流」でない狩りのスタイルを誰かがやっていなければ、そもそも否定しようもなく、アンチスタイルとしての自分を立てることもできません。

先ほど、モンスターハンターそのものはジェネレータとして提供されていると書きました。「どうすべきか」には答えないと書きました。では、なぜハンター達は「どうすべき」「どうすべきでない」を言えるのか。
それは、かつてその狩りを行い、その方向へ「モンスタハンターを広げた」ハンターがいたからです。繰り返しますが、狩りのスタイルはモンスターハンターのゲームディスクの中にはありません。それに触れたハンターが、ひとつ、またひとつと広げてきた世界にそれは成り立つのです。自分の好まない方向へも広がっていてくれたからこそ、文句を付けつつ自分の好みを立てることもできるのです。

あるハンターがある狩りをし、そこにモンスターハンターの「用」が広がる。広がった証が打ち立てられる。気の遠くなるようなその繰り返しによって、この世界は広がってきました。その世界に深みがあるのならば、それはあらゆる方向へその狩りの可能性を探ってきたハンター達の証に他なりません。

先に、狩り場はゲームとそれに触れたものとの境界面に立ち上がると書きました。それは本当にはかない現象です。どこかに記録されるということもなく、それが発生することがイベントとして予定されていたものでもない。が、そのはかない表象が繰り返し立ち表れ、その記憶が交換され、他のハンターの手に渡ってゆくことによってのみモンスターハンターはその地表を広げていけるのです。

だから、狩りの経験は競うことでなく継承されることで、物語は読み解かれるのではなく紡がれることでモンスターハンターの「用」を成します。
ハンターに見えるモンスターハンターの世界とは、ジェネレータを通して、モニターを通してその「向こうに」見えるかつての誰かの狩りです。そこにはその先人の打ち立てた「証」があり、それを見上げ、近づき、自分の狩りがそこへとどいた時、ハンターはそっとささやかな自らの証をその脇に添え、そしてその先の地平へ目を上げるのです。

モンスターハンターを広げてきたその「証」。幾重にも積み重ねられ、あるいは無人の地平に起立してきたその「証」。
今、モンスターハンターの世界がまぶしさを持って見上げるべき高みを持っているのなら、思わず顔のほころぶ広大さを持っているのなら、それをそのような地点にまで切り拓いてきた無数のハンター達の証…「英雄の証」によって、それはその「用」をわれわれに見せるのです。

新しい狩り場へ踏み出す皆へ。未踏の地を切り開いてゆく力強きハンター達へ。
世界はこれから生まれます。その絵はこれから描かれます。

願わくば
そこではすべてのハンターの誇りが傷つけられませんように。
そこではすべてのハンターの心が曇りませんように。

そして、すべてのハンター達へその「英雄の証」が継承されますように。
その狩り場が笑顔で振り返ることのできる狩り場となりますように。

では次回。そのための一歩、「英雄の証・後編」へ続きます。

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